助ける人と助けられる人
大学生の時、ちょっとしたサークルの部長をやっていたのですが、とにかく手のかかる部員がおりました。
「冷たいやつ」って言われた件
割とガチめなサークルだったので練習が頻繁だったのですが、何かと理由をつけて休みまくり、文句が多く、酒癖が悪く救急車で運ばれたことも。しかし実力はあるので放っておくわけなもいかないという厄介な存在でした。
最終的に4年間何かと世話を焼くハメになり、あまつさえ他の女子大の子を紹介してあげて、彼の大学生活に彼女という華を添える手伝いまでしました。今考えても世話焼きすぎだと思う。
しかし彼の私への評価は「冷たいやつ」でした。確かに男同士なので優しく支え合うというよりは憎まれ口を叩きあってばかりでしたが、それにしたってこんなに世話をしてやったのにこの評価はあんまりです。
「助ける人」の分類
「助ける人」と「助けられる人」の間って、こういう行き違いというかちぐはぐな関係になりがちじゃないですか?
ざっと「助ける人」を分類してみましょう。
- 態度は批判的だけど実際に助けてくれる人
- 態度が肯定的で助けてくれる人
- 態度が批判的で助けてくれない人
- 態度が肯定的で助けてくれない人
というふうに分類するとします。
1. 態度は批判的だけど助けてくれる人
上記の私とか、世の中のお母さんってこんな感じじゃないかな。「ちゃんとしなさい」とかブツブツ言いながらも、最終的には助けてくれる。世話を焼いてくれる。
相手にちゃんとして欲しいとか、助ける側なりに要求があるから批判的な態度をとるけど、最終的には助けてくれる人がこれです。
2. 態度が肯定的で助けてくれる人
こうなりたいものです。いちいち小言を言わずに助けたい。でも小言ってのは勝手に出てくるもので難しいです。
3. 態度が批判的で助けてくれない人
こんな人は別にどうでもいいですね。ネット上に溢れています。
4. 態度が肯定的で助けてくれない人
こういう人もまた、ネット上に溢れています。具体的になにかしてくれるわけじゃないけど、同情的な態度を取ってくれる人たちです。でも具体的なアクションは何もしてくれません。
結局、誰が大切なのか?
えてして助けられる側からすると、「具体的になにかしてくれる人」より、2と4のように「とりあえず自分に肯定的な人」を受け入れてしまいがちです。具体的なアクションをしてもらわなくても、「頑張ってるね」とか「よくやってるね」とか言ってくれる人を受け入れ、とても良い人だ!と自分の中で位置づけてしまいますよね。
逆に、実際に汗水たらして自分を助けてくれる人でも、いちいち小言や批判・中傷を口にする相手は拒絶したくなります。具体的なメリットを与えてくれるにも関わらずです。
ここまでグズグズ書いたことを平たくいうと、
お母さんは小言がうるさいかもしれませんが具体的に助けてくれるから重要なわけで、Twitterで「頑張ってるね」とリツイートしてくれる人は耳に心地よい言葉をくれるけど具体的なアクションがないのだから相対的に重要ではないということです。
あれっあんまり平たくなかった。
この「重要さ」を取り違える人が多いと思いませんか。私の周りだけでしょうか。
「助ける側」からすると、具体的に誰かを助ける/助けないに関わらず、とりあえず否定的な態度を取ると反発されますし、肯定的な態度をとっておけば具体的に助けなくても「いい人」扱いしてもらえます。批判的な態度や小言はどこでも歓迎されない上に自分もイライラするので言わないのが得ということです。
「助けられる側」からすると、本当に自分を助けてくれる(くれた)人を見極め、表面的な小言や悪態をスルーする努力をする必要があると思います。
なんかごちゃごちゃ書いてしまいましたが、要するにみんな仲良くしようぜ、と言いたいだけなんですけどね。
じぃーまでした。
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